1ヶ月ほど前の話になりますが、アリス紗良オットの演奏会に行きました。
アリス紗良オットを聞いた最初はショパンのワルツの小品だったと思いますが、いつものショパンとは全く違う、内向的でため息のような解釈がとても新鮮で現代的だと思っていました。華麗なはずの和音から、何かざわっとする感覚が立ち上るのです。
演奏会のタイトルは「Night fall」といい、光と闇が溶け合う刹那の時間、逢魔が時がテーマでした。人間にも光と闇の部分があるんじゃないか、と最初のMCで彼女自身が語っていました。それ自体は割と一般的な話でもあります。ふむふむとあまり気に留めずに聞いていました。
生で聴いた彼女のピアノからはこの世のものとは思えない不穏さが立ち上り、期待を裏切らない凄さでした。あんな美しくも気味の悪いピアノは他に聴いた事がありません。私は彼女がピアノで引き摺り出す「具体的な闇」に圧倒されました。ざわっとしていて、それでいて甘美で引きずり込まれるのです。
それは私たちにいつも隣り合わせにあって、実はかろうじて落ちずに済んでいるだけなのだといきなり気付いて、背筋が寒くなります。狂気にも少し似ています。
引きずり込まれる/出される…彼女のピアノには、何だか体が動けなくなる暗示が漂っています。
夜のガスパールは本当に圧巻でした。「悪魔が会場を飛び回る」という評が書かれていましたが、ざわっとした気味悪さがだんだん輪郭を持って生き生きとし始めるのです。しかし不思議なことに「飛び回り」始めると、ざわざわした感じはなくなりむしろ手応えというか希望に似たものを感じるようになります。
演奏会の後、2日位変な頭痛が抜けない、という現象が起きました。
耐えきれず、2日目の昼間に横になったら、凄く気味の悪い女が出てくる夢を見ました。一見普通なのですが、内臓がどろどろに溶けているのがなぜかわかるのです。女は何か言いたそうでしたが、何も言わずに去って行きました。内臓が溶けているので妙な歩き方でした。
あれは私だ…と思いながら後味悪く目覚めたら、頭痛は消えていました。
あのピアノに何かが引きずり出されたとしか思えないのです。
アリス紗良オット、録音でもその美しい不穏さは十分味わえますが、一度生で聴いてみるべし。ファウストの世界に、悪魔に会えるよ。