地元が負担を背負いながらそれでも残すかどうか、という背に腹は変えられない局面に立った時、最終的に効いてくるのが、建築物としての価値もさることながら実はこうした多チャンネル性、あるいは懐の深さなのか…ということを今回の件を通してすごく思ったのです。
紆余曲折を経て、先日とうとう菊竹清訓による都城市民会館は、解体が決定しました。
この顛末を通した考えたことのメモ。
菊竹さんの建築はとにかく才気走っています。
どの位才気走っているかというと、実際に見ると才気が立ちすぎて、むしろ建築が霞むレベルです。
建築というより結晶みたいな感じで、全部じゃないですが奇跡みたいに思える作品もあります。
上手いとか、そういう感想を超えます。
建築小僧としては垂涎の作品群なのですが、一方で微妙ーーーに建築の体感がずれる感覚があるな…という感じをずっともっていました。なんというか、内部に入ってもずっと外から見ている感じで、建築の中に入った感覚が薄いのです。
独特のアメニティ感の欠如というのか…わかる人にだけわかればいい孤高さというか。
つまりはエロがない。スピリットが立ちすぎて肉がない感じ。
先の結晶云々はもちろん比喩ですが、結晶は重力より段違いに強い分子間に働く力で出来るものですから、重力よりもっと強い自律的な力の存在を感じる、ということかもしれません。ちなみにここでいう重力ももちろん比喩で、言うなれば人間社会が建築を成立させる時に作用する諸事情、ということになるでしょう。
その点、例えば丹下建三や前川國男の作品は対照的で、遠目ではダイナミックでブルータルに見えて、近づくとおもてなし感に溢れてるといつも思います。